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以下は某SNSに書いたものです。 (アカウントは削除済み)
これまでに会った人や間接的にお世話になったひとたちにお礼を申し上げたくてまとめました。
病名等で検索された方へ
自然治癒はあなたの中に始まってます。生きましょう!

hazakuratanka


こんにちは。はじめに、平成9〜14年ごろ献血してくださった皆さま、無償の支援をありがとうございました。そして毎回明るく輸血処置をしてくださった武蔵野日赤のスタッフの皆さまのおかげです。私はその後自然に回復し今元気です。


そして医科研の仲間たちのことはいつも思い出します。そこには純粋な若者たちがいました。身をもって忠告してくれた二人について書きます。「食事が大事だよ。」と言った吾郎君。歩くのもやっとなのにみんなに楽しんでもらいたいと笑った品ちゃん。今帰ってきているかな?


お盆のうちに。駆け足で行ってしまったコウスケに千鶴ちゃん、栄一くん、恵理子さん。みんな恥ずかしげに笑っている姿が、目に浮かびます。一度だけ話したことのある美穂さんにはその後ご両親に私が助けられました。「酸素がほしい」と願った日々が教えてくれたのは、呼吸できることの有り難みです。


高校の後輩たちのことも書いておきます。文化祭の準備を主になって働いてくれたまじめな少年たちです。4月、一年生たち20数人は製作に時間を要する屋台3つと、玄関アーチの宣伝製作に振り分けられます。一般の中学から受験してきた子が、中学から上がってきた子たちと友達になる共同作業でした。


屋台はポップコーン,かき氷,綿あめ。自分たちで設計して小屋を建てるのは楽しいもので、しゃべりながら(下ネタか?)紙やすりで磨いたり、もくもくとペンキを塗る姿を思い出します。マンベ,ヤスハル,オノヅカ,イイジマ,フジタ,フジイ,キウチ,マツイ,イトウ,オトワ,オオノ,モウリ,ミヤケン,イガ,マツザキ,プロ長のモリタ。


そして翌年製作を指揮するセキとニキ。柔道部かけもちで頑張ってくれたイマダ,ヒラノ,また名前を思い出し次第、彼らの功労をここに残したい。自分は前年に上級生から受けた指導をそのまま、新入生に行えばよいと思っていたことに落とし穴もありました。フジタ君、下校するところを止めてごめんな。


静かだが頼りがいのあるセキカワ、一番真剣な眼差しをしたヤスダ。5月の中間テストが終わるころにはそれぞれの屋台は完成し、今度はコリントゲーム製作に入ります。コリントとは巨大なパチンコ台です。玉はゴルフボール、ピンは丸木を切ったものをベニヤに下から打ち付けます。錐もみが大変でした。


朝6時登校、夜8時下校まで20数名の1年生たちが主になって作業に当たってました。6月第三土日の本番まで、授業を「おおやけに欠席」=公欠して大工仕事をしている生徒会です。私が製作担当になったとき「公欠はさせない。」と決めて1年生は授業に出ましたが、改めるべき習慣はまだありました。


私たちが上級生から引き継いだ慣習のひとつにミーティングがあります。それは気合を込めるために怒鳴ることでした。本来は「ご苦労様でした/お疲れ様でした」を大声で言い、スパッと切り替える「仕切り」だったのでしょう。そこに形式的な叱りが伴い、毎日のミーティングが長引きます。


この経緯は10年ほど前に同窓会誌に謝罪文を投稿したことはあります。当時の一年生たち、そしてその後も関わった後輩たちの目に留まることがあれば、ここにてお詫び申し上げます。下校時間より前に打ち合わせは終えること、余計な精神的肉体的疲労を強いてはならなかった。すべて自分に帰ってきます。


他者にしたことは自分にかえってくる。還ってくる、それも倍以上になってとは本当です。不当な労働を強いたことも怒鳴るミーティングも、自分が上級生からされたもので、それが指導のやり方だと疑わなかった私の失敗です。本稿の最初に輸血について書きましたがその後10年間貧血になりました。


また二度と怒鳴らないと心に決めています。私はよく口の中を噛んでしまい、絶えず口内炎があって痛いのですがこれも「報い」のひとつです。当時の関係者以外で本稿をご覧になった方は、組織のしきたりであろうと他者に不当な苦痛を与えることは即時に止めること、受ける側がどんな気持ちか考えること。


高校の仲間や下級生たちは一人一人が最高のメンバーでした。離れて久しいため形のある連絡ができないけれど、みんな無理させてごめんね、そして貴重な高校生活ありがとう。


遠方から始発で登校する生徒がいるのに、8時下校後近くの公園へダッシュして立ちっぱなしのミーティングを連日していたのですから異常でした。立ちくらみで何人も倒れたのです。文化祭を終えた晩、実行委員長が全員の家庭へ電話し、謝罪していたのも相当責任を感じていたからだと思います。


コリントの話に戻ります。文化祭当日はコリント目当てに子どもたちが大勢やってきて一人3発ずつですから1時間も並ぶこともありました。トラックが荷台を斜めに起こしたようなパチンコ台を思っていただければ。発射台の位置から、高さ2mの最深部へゴルフボールを送るには幅広のゴムを用います。


私は発射台の係で小さい子には一緒に引っ張って打っていました。そこへ学校職員さんが小学生の息子さんを連れて見えました。製作中は大変お世話になった方で、お子さんには前から話していたのだと思います。1時間してその子の番になりました。6年生でも運動に長けたほうだったのだと思います。


少年は思いっきり引っ張った。そのとき発射棒の先が誘導管を抜け、はね返って額に当たりました。すぐに抱えて保健室へ行き、処置してもらいましたが後日ご自宅へ伺ったところ何針か縫ったと聞かされました。強力なゴムですから反発力は大きい。目に当たってたら怪我では済まなかったと思います。


発射棒が完全に現れるほど力のある子どもはいない、と考えもしなかった私の落ち度です。その後息子さんは中高と運動部で鍛え、自衛隊に入ったといいます。今回の震災では現地入り、捜索に当たった一人だと思います。お父様とは卒業後も交流が続き、ご自身の田舎へ2度も連れて行ってくれたました。


事故を防げなかった理由のひとつは疲労です。その日献血車も来ており、何日も睡眠不足+栄養不足なのにスタッフだからと献血しました。献血は前年に一度しましたが、やはり成長期に200mlもの失血は負担が大きいのではないでしょうか。一年後、ふらっと寄った献血センターで異常が見つかりました。


健康を害する原因は身体的要因や、本稿のはじめに書いた因果関係もありますが、「現状を否定する」日々がかたちに成って現れたと思っています。今振り返ると寝たきりのころは多くの人に支えられていたこと、貴重な経験でもあればすばらしい人たちに出会えたことなど、すべてがプレゼントに見えます。


もし骨髄移植のセカンドオピニオンで検索されている方がおられましたら、移植はやめること。移植の際に浴びる放射線は「チェルノブイリの何々倍。」と担当医が教えてくれたことがあります。入院したばかりの私に「移植は受けちゃだめだよ。」と真顔で言った仲間たち二人は数年で亡くなりました。


吾郎君と品ちゃんのことをもう少し聞いてやってください。強い放射線で被爆すれば内臓は傷んでしまいます。患者や家族は「移植は成功したのか?失敗なのか?」と前より落ち着かない日々になります。大学病院でした。医師は「この薬なら効くかもしれない...」と何十万もする点滴を持ってきます。


それは臨床試験といい、本人および家族の同意があって初めて投与されるものですが、既にボロボロの状態でした。病院の近くに引越しまでして支えたご両親です。それでも望みがあるのならと受けさせたと。吾郎君は最後まで意識があり、「もう帰りたい。」と言い、双子の兄君が担いで連れて帰りました。


私は吾郎君の忠告でその病院を離れていましたので、この経緯はご両親様からうかがったものです。バスケのユニホームを着て静かに見ている写真がありました。電動ベッド等機材を揃えたことから、本人は家なら大丈夫だと思っていたのかもしれない。安心が最高の薬、最期はお母様の手を握って逝きました。


このままでは吾郎君もかわいそうなので普段の姿も書いておきます。私が会ったときは19歳くらいだったと思います。高2あたりから入退院生活に入り、その頃は学校の計らいで特別に課題を与えられて「何とか卒業できそう。」と嬉しそうにしていました。また男の子ですから好みの看護婦さんの話も。


もうひとつ骨髄移植の話をしておきます。90年代なかばインフォームンセント(説明と同意)という言葉が新聞に載るようになりました。治療の目的、どんなことをするか、そして起こりうる副作用すべてを話し後は本人が決めるという仕組みです。放射線で精子・卵子がダメになる話も聞かされます。


吾郎君は未成年だったためか、生殖能力を失うことについては聞いてなかったようです。ちゃんと立つし出るんだから「そんなはずは。」という顔をしたので、もう病気の話はよそうと「こんど菅( )美穂の写真集買ってきてあげるから!」と切り上げました。病院であっても生活の場。普通の話をすること。


一時帰宅した吾郎君から手紙が来たことがあります。そこにはポケベルを買ったので、病院に戻っても届くからメッセージ送ってねと数字と文字の一覧表が添えてありました。新製品を知らない私は一度もやりとりすること無く、せめて手紙をもっと書いておけばよかった。みんな外の話が聞きたいんです。


入院仲間は家に戻っても心配になるものでよく手紙のやりとりをしていました。出してから「具合悪くなってないかな。」と思い、しばらくして返事が来ると「よかったー、生きてて。」とものすごく嬉しいものです。文通といっても年に一、二往復でしたがそのおかげで命を救われたことがあります。


手紙は、縁起の無いことですが本人が亡くなっても家族が開封して読んでくれます。3つほど上で親切にしてくれた品ちゃんが亡くなり、私は歩けなかったので手紙を書くとその叔母様から返事が届きました。育ての親である叔母様が電話で話してくださったことは、「子どもを産んで治った人もいるんです。」


そのころ私は輸血を受けており医師からも治ることは無いと言われていたので、叔母様の話は衝撃でした。〜自然に治った人はいるのよ、イクコは最期は酸素がほしいと言って負けちゃったけれど、同じ病気で治って元気になった人もいるから。と。自然治癒は実際にあると知り、ゆるぎない安心感を得ました。


それから二年ほど品ちゃんの叔母様とも年賀と暑中見舞いに近況報告が続いたのですが、ご本人も同じ病気になられてしまいました。自分も寝たきりになっていたのでその後はわからず仕舞い。もし本稿を見ることがありましたら、あのときノブエ様がお話くださった自然治癒の実例で命を救われました。


自然治癒で回復された人がいっぱいいることを知っていただきたくて、本稿を書いています。先の話を聞いた翌年死にかけたときでも、頭の片隅に「大丈夫、回復するから。」と光が灯っていました。悪性リンパ腫,急性骨髄性白血病,骨髄異形成症候群の人、そのほかの病気の方、あなたは生きられます。


正しく言うと、「今生きている。」それだけを思っていればOK。元気になった姿を思い浮かべてもそれはあなたでは無いです。現状だけが本物の自分なので。それと恐怖は物事を悪化させます。私の場合呼吸が苦しかった間、全身の力を抜いて脈の動きに任せていれば修復されると思ってました。




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